生きるとはなにか

母は晩婚であり、私を生んだのは30代後半である。私を妊娠しているとき、母は糖尿病になった。 もう一人本当は産みたかったそうだが、体の状態もあり断念をしたそうだ。これらは大人になってから聞いた話だ。 

 

中学生の時だ。突然、父が亡くなり、それから母はなんとか頑張りながら私を大学まで出した。 その間も通院しながらも元気に暮らしていた。 

 

その後、私は金銭的にも生活的にも安定をしてきたので、30代を機に私は家を出た。 東京でのひとり暮らしである。 地元とは違い、夜でも多くのお店がやっている、どこへ行くにも便利、誰にも縛られない生活に幸せを感じる日々を過ごしてた。こんな一生続けばいいのに、そう思いながらどこかで高齢になる母をおいて一人で暮らすことなんてできないだろう、きっといつかは実家に戻って帰らなければならないと頭の片隅に思っていた。

 

 あるとき、母から電話があり「腎臓病になった」と連絡がきた。 病院からも説明があり、人工透析をする必要があるという。 透析をしないと長くは生きられないとのことだった。 

 

医者に対して「節制しながら生活していたのになんで…」と言った。母は栄養を考えながら、好きな食べ物も少しにするなど我慢をしながら生活していたそうだ。

 

母はかなり落ち込んでいたが、しかし透析さえすれば生きられるのだ。 週に3回の透析をする必要があるが、それでも楽しく生きている人は世の中にたくさんいる。 透析へ行くにも車での送迎があり、具合が悪ければ最低限の対処を向こうでしてくれる。 

 

だが、私の中ですぐに死なないのだからという安心感があった。そして、母もそう感じたのか表情も明るくなっていった。 

 

しばらくは実家で過ごした。透析後はぐったりして心配だったが、それも何回かで慣れたようだった。 母が大丈夫なことを確認してから、東京の家へと戻った。

 

 そして、私が31歳のとき東京での暮らし3年目に突入しようとしていたときだった。 母からまた電話があった「一緒に病院に来て欲しい」そのときは母もどんなことで病院に呼び出されたかわからない状態だった。その日は仕事を休み、病院で母と待ち合わせをする。 

 

そして、母の順番となり、診察室へと入る。そして医師はこう言った 「胃がんです」 母は胃がんになっていた。ステージ4と診断された。

 

高齢、腎臓病、糖尿病などが合わさった結果、地元の大きな病院でも手術できないと言われた。 抗がん剤も難しく、状況としては絶望的である。母と私、2人とも言葉を失った。そして、母は泣いた。 どうすることもできないとはこのことである。 病院にも通院し、特に問題はないと最近まで言われていた。

 

ただ、先月ぐらいから食欲がなくなり、食べても嘔吐してしまうことが多くなったという。 そのときにも病院からは「たいしたことはないと思いますが、念のため検査してみましょう」とのことで、一応やった検査で出た今回の結果がこれだ。

 

母は激昂に近くはあるが、力がない様子で「今まで検査をしても問題なかったしなんでですか!」と言った。 「このままの状態だと寿命はどのぐらいですか?」と私が聞く。

 

医師は「半年ぐらいかもしれない」と言った。 そうか。半年か。診察室は病院のアナウンスしか聞こえないほどの静寂となった。「ちょっと考えてもいいですか?」と言って、診察室を出た。家に着いても会話ができなかった。 

 

会社に対して「休むことが多くなるかもしれない」と理由も合わせて伝えた。心配をしてくれたと同時に「セカンドオピニオンをやってみたらどうか」と提案を受けた。

 

そうかと思い、セカンドオピニオンを探す。しかし、ガンの治療と透析を同時に行えるところが限られている。どこを探してもダメだった。そのうち、世の中から孤立する感覚になった。自分に血縁のある人がいなくなるのだ。親戚もいるが、深い縁がある人はいなくなる。段々と頭のぼんやりとし始めて、何も考えられない状態になった。しかし、生活をしなければならない。会社に行き、仕事をする。そんな日常を過ごしていた。

 

そこから何があったか記憶がない。

 

そんな中、透析の先生に相談をしたところ、大学病院を紹介してもらえた。 セカンドオピニオンではなく、診察としてである。

 

予約を取り、診察へ行く。紹介をしてもらったのはその病院でもかなり偉い役職のある先生だった。聞いたところ、透析の先生は昔の教え子らしい。専門は内科だが事情を話して見てもらうことになった。

 

レントゲンやMRIの写真を見ながら口を開いた。

 

「これ、手術できそうな気がするな…」

 

 「え…!」

 

 

親子ともども驚いた。 そこから先生は外科の先生に内線をかけて、これまでの経緯を話し、しばらくすると外科の先生が診察室に来た。

 

その先生が言うのは

 

「体の状況もあるのでかなり難しく、正直に言うと開けて見ないとわからないですが、0%ではない気がします」

 

 希望の光が差した。手術をしてみようということになり、検査や入院の手続きなどを行いその日は病院を去った。母は安心した表情をしていた。

 

 そして、迎えた手術当日。手術前に一度会ったが、不安な顔をしていた。「でも、大丈夫だよ」と母へ言った。何も根拠は無いが大丈夫だと思ったからだ。 手術室へ運ばれて、待合室で待つ。7時間ほど経過し、先生が手術室から出てきた。

 

 「一応、成功しました。あとは経過で何もないことを祈りましょう」 胸をなでおろした。

成功をしたのか。良かった。 

 

これをきっかけに私は東京のアパートを退去し、実家へと戻ってきた。 母も元気に暮らしている。 また東京に暮らした気持ちがある。

 

ただ、元気になったタイミングで「東京でまた暮らしたいと思っている」という話をしたら、 「不安で寝れなかった」と言われて、どうしたらいいのかわからない。 でも、またいつか東京で暮らしたい。そんなことを思いながら過ごす日々である。不満もあるが、人生はこういうものだと思いながらみんな生きているのだろう。